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看取り介護を実践して考えたことをブログに綴ってきました。そのいくつかを取り上げまとめてみました。
(masaの介護福祉情報裏板 より)
看取り介護計画作成の視点 2006年04月08日
表の掲示板では、制度改正に関連して、契約書や重要事項説明書の雛形はないか、という問いかけが時々ある。
私の場合、その種の質問にレスポンスをつけることはまずない。
そもそもそういう雛形に興味がないから、そういうものを公開しているサイトも知らない。
介護保険制度の施行前の混乱期には、施設や事業者と利用者との契約がどのような書式で行うべきか、まったくわからなかったので、老施協や経営協の書式を参考にして、とりあえず形を整える、という対応は行った。
しかしそれにもデメリットがあって、実際の施設の持つ固有の概念やサービス理論と契約内容がマッチしなくて、契約書、重要事項説明書の記述内容がまずありきとなって、経営理念やサービス理念が、それに縛られてしまう、というおかしな状況が生まれた。
だからどうしても契約書や重要事項説明書は独自で作る必要がある。
とはいっても、既存の施設、事業所は現在使っているものの一部を改正するだけで、あまり苦労はいらないはずだ。
それを自分の施設や事業所の既存書式を雛形にしないで、他者が改正にあわせて100%仕上げた書式をそのまま使ってしまおうとする考え方にはついていけない。
自ら汗する努力がないと、臨機の対応が出来ないと思う。
とはいっても、これらの書式を僕がひとりで作り上げるわけではなく、僕の施設の場合は、何の指示をしなくとも、事務担当部門が変更同意書、契約書、重要事項説明書、運営規定などを変えて作ってくれる。
それに対して、ここはこれも入れて、とか、ここはこう変えたほうが良い、とかディスカッションして仕上げるわけである。
ただ看取り介護の指針のような、まったく新たに必要とされたものについては、これは看護や介護の現状を把握している人間が作る必要があるので、そういう種類のものは、僕や他のソーシャルワーカーが作る。
看取り介護の指針も、いち早く作り、サイトで公開したが、その意味は「看取り指針を作りながら考えたこと」で示した通りである。
後に全国老施協も独自に作成して各施設にその雛形を配布しているが、僕はそちらはどうも僕の考え方や我が施設のサービス内容とマッチしていないし、指針としては読む側が読み取るのに苦労する量と内容であると判断して、自分で作った独自版を施設の指針とした。
ところで看取り介護に必要な「看取り介護計画」まで雛形がないかと問いかけてくる方がいる。
看取り計画は、その施設が個々の対象者に対して、どのように終末期のケアを行うか、という看取り介護の根幹を成すものだろう。これにも雛形を当てはめてしまって、本当に適切な看取り介護が出来るのか?
是非、このあたりは各施設の全職員が頭を悩ませて仕上げて欲しいものだ。
ただ、その書式自体は、現行使っている施設サービス計画と同様で良いと考えている。アセスメントツールを変える必要もない。
そのまま施設サービス計画を看取りの介護計画に変えればよいのだ。
また利用者や家族の希望も「施設において安らかな死を迎えたい」という意向が中心になるから、そう難しい問いかけや引き出しはいらない。
長期目標は、まさに看取りの指針で示されている看取り介護の考え方がそのまま生かされるだろう。
特に僕の作った指針では「看取り介護の具体的支援内容」も示しているので、サービス計画書2の中に、その内容を盛り込むことで、あまり悩むことなく看取り介護計画は作れると思っている。
何より、目の前にいる、我々と関わりを持ってくれた、それぞれの生命(いのち)に対して、心から感謝する気持ちを計画に表せばよいのだ。
看取り介護計画作成と同意。 2006年04月18日
看取り介護の新ルールができてから始めて、この対象となる方の対応を行った。
これまでも多くのターミナルケアを行ってきた実績はあるが、4月以降は一定のルールにおいて、結果的に加算を算定することになり、利用者の自己負担も生ずる。それを含めた説明や同意も必要だ。
これまでは、ターミナルケアの状態となったことを、医師より説明していただき、ソーシャルワーカーや看護師が施設でできることと、できないことを説明し、家族の希望を確認した上で、施設内でターミナルケアの体制をとり、実施するのみで、ターミナルケアの同意書もとっていなかった。
過程の記録だけで充分だろうという気持ちがあったし、ターミナルケアの同意書という形を残すことが、家族の覚悟を促しているようで嫌だったからである。
しかし、これからは当施設の「看取り介護の指針」に基づいて、「看取り介護についての同意書」を頂いた上で、看取りの計画を立て、それにも同意を頂いて実施することとなる。その一連の過程は省けない。
今回は僕がチームの中心になって一連の過程を踏むこととした(説明から計画作成、同意まで)
さて、本ケースは具体的な状況は記すことはしないが、その方がもつ疾病から考えて、いずれ近い将来に、どこかでターミナルケアが必要な状態になることがわかっている方であった。
数日前から症状がでて、協力医療機関で検査を行い、その結果が出る段階で、あらかじめ家族に連絡して、医療機関内で、主治医師、家族、施設職員の3者で病状説明と今後の話し合いを行った。
家族の希望で施設において看取りの介護を行うことになり、体制作りに取り組んだ。個室の利用者であり、家族も住みなれた部屋での対応を希望されて、居室をそのまま利用した。
その日は、たまたま主治医が施設の定期健診の日であったので、施設内で医師から必要なアドバイスを受けて、ケアカンファレンスを開いて、看取り介護計画を作成した。
これは特別なものではない。当施設の施設介護計画はMDS2.1Lapsを使っているが、これをそのまま使い、その日の状況にて再アセスメントを行い、問題領域を検討した。
ターミナルの状態だから、身体面、精神面、多岐に渡る領域で状態変化による見直しがある。
ただ総合的な援助の方針や具体的支援内容については、指針の中で示しているから、その観点を計画にすればよく、比較的楽な作業で計画は作れる。
ただ、看取りの計画も、今までは施設介護計画の一部変更で、なるべくターミナルケアとか看取り、という言葉を使わずに、必要なサービスプランを変更して提示するだけであったが、明確に看取り計画でなければならず、総合的な援助の方針にも、長期・短期目標にも「看取りの介護」であることを意識して文章化した。
それを家族に説明して、同意を求めるわけであるが、やはり、いざ計画にある「看取り」という言葉を目にすると、家族にはショックがあると感じた。言葉を選んで家族の精神的支援をすることは、同意を頂く時点からすでに始まっている。
それから週1回以上は、家族等に状況を報告して、その記録も必要になる。
しかし書式が大事なのではなく、いかに安心して最後の瞬間まで利用者や家族が、この施設で過ごすことができるかが一番重要だ。
これは過去も現在も変わっていないことだけは肝に銘じておかねばならない。
そして看取り介護自体は、指針に支配されるものではなく、指針と実態が合わなければ、指針を変えればよい。
自分で作った指針にがんじがらめになって、肝心の対人援助サービスが硬直的なものになっては意味がない。
看取り介護考〜死の告知。 2006年06月28日
看取り介護の方法や考え方については、このブログで何度か書いてきた。
4月からの加算が算定されたことに係わらず、それ以前から施設ではターミナルケアに数多く取り組んできた。
それが4月以降、報酬上の評価もされることとなって、算定のルールにあわせた「看取り介護の実践」という形に変わったに過ぎない。
ここで問題となるのは、看取り介護の計画に対する同意である。4月以降、当施設では、この対象ケースが3例あったが、いずれも同意者は本人ではなく、家族である。
おそらく全国の多くの施設で行われている看取り介護の、ほとんどの同意者が僕の施設と同様に家族であろう。
そうすると、いずれこのことに異議を唱える声が挙がってくる。異議というより、非難としての声を挙げてくる関係者も出てくるだろう。
つまり、看取りの対象者は意思表示や自己決定が困難な認知の悪化した方だけでなく、意思をしっかり表明できる高齢者も対象に数多く含まれているはずで、本人が終末期にどこで過ごすのか、ということに対して、本人の意向が反映されないで、家族だけが決めているのは不適切だ。本来、死に行く場所や、死に行くときに受ける介護や看護の方法は本人だけが選択できるものだ、という非難である。
予言しておく。必ず、そういう声が出る。
それに対し、現場の我々はどう答えるのか?
意思の表明ができなくなった状態でも、その方が日頃から希望していた終末の希望は充分理解できており、その希望に最大限沿った形で家族と話し合って選択していただいている、認知症の方も、その方の代弁者として、自己決定は困難でも日頃から希望を把握してその意向に沿う形で実践している、ということになるだろうか。
しかし僕は、それ以前に、本人から看取り介護の同意をとる、ということ自体、疑問視している。いやむしろ、否定的だ。
この場所で、馴染みの職員に最後まで介護を受けて、最期を看取ってもらいたいという希望を確認しておくことは大事だし、我々は、常日頃、そういう意識への配慮を行っていなければならない。
しかし、この施設で看取ってもらいたい、という方に対し、「いよいよ貴方の命は医学的見地から判断して、終末に近づいています。ですから、これこれの方法で看取りの介護を実践します。心をこめて安らかな死を迎えられるよう援助します。」と説明したとき、その方は自分の死期が近いということが、ショックなく受け入れられるであろうか?
これは、死の告知、そのものではないか?
将来的に施設で終末期を過ごしたい、ということと、今まさに終末期であることを告げて受け入れることは、まったく異なるのだ。実際はそういう告知を経ずに終末に臨んだほうが幸せであるというケースが多いと思う。
ある癌専門医の方とお話したとき、心に残っている言葉がある。「告知をすることが良いか悪いか、僕には結論が出せない。告知することで問題になることもあるし、告知しないことで問題となることもある。患者さん、本人が希望している方法で、希望するとおり告知を行っても、それは同じだよ」
またある医師は「現実的にがん患者さんに末期のがんですなどと決して言うことはできない。患者さんが可哀想だ」という。
思い出したのは、吉村 昭氏が、自分の最愛の弟を末期がんで看取る際に、最期まで告知を希望する弟に「治る」と嘘を貫き通した読売文学賞受賞の名作ノンフィクション「冷たい夏、熱い夏」である。
欧米では癌の告知により残された時間を有効に使うという考えがあり、それに賛同する意見もわが国においても多くなっている。しかし、自ら告知を希望する本人が実際に癌に侵されたとき、告知されたことで精神的ショックを受けないとは限らない。
吉村氏は、このことを「日本人と欧米人では死と生に対する観念が異なる」として様々な例を挙げている。そして死病であることを伝えれば「患者は激しい精神的衝撃を受ける」「それよりあくまでも隠し通して死を迎えさせるほうが好ましいのではないか」「それを情緒的といわれても良い、それは私たち日本人に染み付いたものだ」「弟もやがてはそれが死に繋がる病だとわかるときが来るはずだが、嘘をつき通すことで、心のどこかで、まだ助かるという気持ちをもてる」としている。
癌の告知などは、どちらが良いか答を出せるものではないが、少なくとも看取り介護に、本人への死の宣告が必要だとは思えない。僕は家族同意という方法で行うこと以外、現時点では考えられない。
生命の大切さを思う真摯な心。 2006年06月29日
つい最近問題となったニュースであるが、富山県の医療機関で医師が7人の患者の呼吸器を外して、死に繋がったことが大きく報道された時期がある。その後の経緯について僕は詳しくないが、大きな事件として取り上げられていないところを見ると、家族に対し説明同意をとっての尊厳死として認められる流れとなっているのであろうか?
このニュースを聞いたとき、最初に考えたことは、呼吸器を外したことは事件に繋がるケースとして大きな問題になるが、仮に同じような状態の方が何かの理由で最初から呼吸器を取り付ける救命処置がとられなかった場合は、このような大きな問題になっただろうか、という疑問である。
救急救命の体制がない地域だってたくさんあるだろうから、救命処置が行われず貴重な命が失われる、ということがまったくないとは思えない。
救命と延命に、その必要性や意味の違いはあるのだろうか。
富山の問題にしても、救命に必要であった呼吸器の装着が、いつの時期から尊厳死が問われる延命行為と変わっていったのか誰も明確な答を出すことはできないだろう。
仮に救命後に著しい脳障害が発覚し、意識がまったくなく、呼吸器で命を繋げている状態であることがその方自身にとって「人間として尊厳が問われる」として「死」を選択したほうが良い、という答になるのか、僕には自信がない。
だから尊厳死の問題は非常に複雑で難しい問題だと思う。少なくとも僕自身は答がみつけられない。
施設で行うターミナルケアにしても、医師が医学的見地から回復の見込みがない、と判断することが絶対条件であり、施設や家族が死の選択へ誘導することは許されないし、あり得ない。
ただ難しいのは、医療機関に入院するか施設で看取るか、という選択の判断の一部分に、尊厳を損なうような不必要な延命治療を行うか否か、という判断が必要な場合である。何をもって不必要で過剰な延命治療というのか、誰にも答は出せない。
生命が維持できる可能性があるなら、まずそちらを選択することが基本として考えられなければならないし、その前提には「命の尊さ」を思う視点が必要だし、生きていること自体が素晴らしいことだ、という前提がなければならないだろう。
しかし「延命の為だけに体中、管だらけになるのは嫌だ」という対象者自身の気持ちは充分わかる。あるいは、将来的にターミナルケアを実践していく過程で、この問題は大きくとリ挙げられていくかもしれない。
全国の施設の中では、意識レベルがかなり低く、経管栄養や点滴で生命を維持している方が数多くいるだろう。しかしそれを人間として尊厳のない状態というのは間違いだ。生きていることそのものに尊厳を求め、それを守る対応が必要だ。
ターミナルケアに係わる施設のみならず、人の生活支援に係わる人々は、いつか人に訪れるであろう「死」に対し、どう向かい合うのか、それ以前に、生命の尊さをいかに考え、真摯にそれを思うのか、それが重要である。
どうも今日は問題が複雑すぎて文章の内容も構成もめちゃめちゃであるし、論旨も不明瞭で結論も出せない。ただ言えることはターミナルケアを行うという前提には生命の尊さを思う心を忘れない、ということだろうと思う。
問われる延命治療の是非 2006年08月01日
1昨日から昨日にかけて、「人の命」に関わる2つの新聞報道があった。
どちらも医療現場における、延命治療の是非について「本人の意思の意確認ができない場合」に家族の同意で延命治療を行わない、あるいは中止することが「生命の切捨て」に繋がりかねないのではないかという問題と共に、その是非が問われている。
命は確かに尊い。そして「生きる」ことはそのこと自体が尊重され、敬われるべきであり、すばらしいことであることを忘れてはならない。
しかし医学と医療の発達は、人類が今まで想定したことのない状況での「生」をも作り出している。
近い将来の「死」が確実視される状況で、ある期間の延命処置を行うことの意味が問われている。
場合によっては、その期間、死の時期を延ばすことにみに重点が置かれ、苦しみの時期を延ばしているだけだったのではないのか、という疑問がある。
しかし、これに対する正確な答を出すことは無理である。人の生に対する価値観、生きる意志、生きたい状況、その瞬間の思いは、すべて個別的な判断で他人が介入する余地はない。
しかし意思表示が不可能な方の延命治療を実行しないことや、その中断をすべて否定するのは、「事なかれ主義」に過ぎなくなる、という危険性もあるのだ。
誰か他人が判断しなければならない状況が「死」の状態まで看取る時期のケアには必ず生じる。だからそのとき、医師が「本人に代わる」家族の意思や希望を受け止め、そして現在の状況を判断し、過去の患者(又は利用者)の意思や生活状況から代弁者としての判断を行って、延命治療の是非を決定をすることは必要だと思う。
それは生を軽んずることでもなければ、切り捨てることでもないと思う。
しかしその判断や責任をすべて医師個人に負わせることはできない。だから新聞報道で言う「ルール作り」や「国が示す指針」が求められるのだろうが、しかしいくら国が指針を作り、一定のルールを定めても「治療より看取りのケアが必要」という状態と時期の判断は、それらで決めることは不可能だ。
この判断は最終的には、医師個人に負わされることになろうし、機関として責任を負うことになるだろう。
それは我々特養における看取り介護の場面でも同じである。
そのとき、我々は社会的責任として、日頃から「生」への尊重の教育に取り組むと共に、看取り介護が「死」の援助ではなく、「生きる」という姿を支えてきたという意味があり、その人らしい尊厳ある生き方の延長線上に「看取り」という時期があるという意味を噛みしめ、その人らしい生き方を真剣に考えながら判断する、という姿勢を忘れてはならない。
そして、その上での決定過程を尊重できる社会的なコンセンサスを作っていけるようなアクションも必要になると思う。マスコミも本人の意思確認ができない場合の延命治療の否定を単に「生の切捨て」などと批判するだけでなく、自分が「死」に向かい合うとき、自分の家族が「死」に向かい合うときに置き換えて、機関や医師に何を求めたいかを問うていただきたい。
本当に「どんな状況でも」できるだけ長い時間心臓が鼓動していることが求められる生き方なのだろうか。
僕にはわからないことも、解決できないことも残っている。しかし、そうした悩みを抱えながら現場では、ぎりぎりの判断をおこなっているのであり、決して安易な「生の切捨て」ではないことを理解してもらいたい。
いずれ、2つの新聞記事の指摘事項と同じことが、特養の「看取り介護」の判断場面でも問題として取り上げられることは間違いない。そのときその問いに充分答えられるだけの取組が真摯にされているかが問題となるだろう。
ただひとつ声を大にして言いたい。
それは4月から「看取り介護加算」という報酬が算定されたからといって、それをもらうために安易な死を作り出すことなんてあり得ない、ということだ。わずか30日、48.000円で人の生命など語れない。
そういう誤解だけはしてほしくない。
看取り介護加算の実施状況からの考察。 (2006年09月01日)
特養におけるターミナルケアのあり方に新たなルールが設けられ、このルールを実施することで「看取り介護加算」という報酬上の加算が算定されるようになって今日でちょうど5ケ月が経過している。
当施設では、いちはやく独自の「看取り介護の指針」を作ったり、僕も4月以降のブログで何度か、看取り介護の実践を通しての視点からの話題を取り上げてきた。
そして、この間全国から、たくさんの皆さんから当施設の「看取り介護」の実践についての質問やご意見を頂いたほか、看取り介護の実践方法の勉強の為、当施設に訪ねてくる方もいたし、僕が「ターミナルケア」の問題を取り上げた各種研修会等の講師やパネリストに呼ばれることも多かった。
そこで今日は、5ケ月経た現在の状況をまとめてみようと思う。
4月以降、当施設で「看取り介護」の算定対象としたケースは4ケースである。
延べの看取り介護の実施期間は38日で、最短4日、最長21日であった。(平均9.5日)
統計上の数値としては5ケ月4ケースではまったく意味がないものといって良いだろう。しかし、あえて言えば、看取り介護の期間自体はさほど長くなることはないのではないかと思う。
それは実際に、この加算を算定する際は、「医学上の見地から回復の見込みはない」ものとして家族等に同意を求める必要があり、その計画には「看取り介護である」ということがはっきり示され、曖昧さを残したムンテラにはできない点にある。
かつて施設でターミナルケアを行っていた際は、同意書を頂いていなかったし、終末期をずっと施設でお世話することを家族と合意しても、はっきり「回復不能」とか「死を迎える準備」という表現でコンセンサスを交わさないままお見送りすることもあった。
この曖昧さは、ある意味で、双方の暗黙の了承のなかで静かにそのときを待つという、それぞれの立場をいたわってショックをできるだけ少なくする知恵としての意味があったわけであるが、報酬を算定する以上は、そういう曖昧さは排除され、家族にもはっきりとした形で合意を得なければならない。
しかし実際に「看取り介護」という言葉を目にし、耳にすればショックはあると思う。だからこの時期が問題になるのだが、個々の部分に基準は作れない。あくまで個別のケースごとに状態を、その都度、様々な角度から判断することしかできない。
そうすると実際は、必要な支援行為を行っていても、いざ、その時期を家族に告げ、看取り介護の計画の同意を頂くという時期判断は慎重になるし、死期がかなり遠い先である、という状態ではその時期としては不適切だろうと思う。その思いが、この数字に表れているように感じる。
それと5月間で、看取り介護加算の算定合計金額は「60.800円」である。年間を通じても経営に影響するような大きな利益になる加算ではない。むしろ、看取り介護の実践を行っておれば、看護職員だけでなく、介護職員も時間外勤務が必然だし、それにかかる費用や、医療材料費や介護材料費を考えるとこの部分だけでは「元は取れない」状態である。
つまり我々の施設のように、もともと加算がなくてもターミナルケアを実施していた施設は、この加算で少しは、その取組に費用面での保障ができたということだが、この加算があるから収入を考えて「看取り介護」を新たに実施しよう、ということにはならない、ということだ。
それと表の掲示板でお知らせしたが、看取り介護の実施場所は基本的には「個室」が想定されている。これは看取り介護加算の条件に「個室」は入っていないものの、看取り介護加算の算定の前提条件である重度化対応加算の要件に「看取りのための個室を確保していること」とされ、あくまで看取り介護は個室で行うことが条件である。
ただし例えばご夫婦で入居されていて、一方が看取り介護の対象になった場合に、住み慣れた部屋で、夫婦共に過ごし看取り介護を受けたい、という場合は、きちんと同意を得ておれば算定可能である。(国にも確認済み)
しかし、これを拡大解釈することは避けていただきたい。
4人部屋等で利用者が、最期を住み慣れた部屋で過ごしたいという希望を持っていたとしても、他の利用者に与える影響を考えると、夫婦部屋という場合とは当然、状況が異なり、他の方のしっかりした理解の下の同意ということも困難と考えられ、基本的にはそのような4人部屋での看取り介護は想定されていない。
基本的に夫婦部屋以外の多床室での「看取り介護加算」算定は想定されない。
ということになっている。これは納得できる考えだ。
僕も看取り介護を多床室で行って報酬算定をしないケースの状況について「様々な看取り。」で書かせていただいたが、しかしやはり実際の看取り介護は、多床室で行う場合、本人はともかく、他の方々には非常に気を使うし、あまり良い方法とは思わなかった。
少なくとも多床室で看取り介護を行う際は「同室のほかの人」全員から、しかも家族ではなく本人から同意を得なければ、看取り介護とは認めないというのが国の考え方だ。
これは費用算定ができる、出来ないという問題ではなく、終末ケアが、同室者に与える心理的影響という部分から、是非を考える必要があるし、僕はそのことには納得できるのだ。
看取り介護に関する研修の内容(2006年10月02日)
特養では4月から「重度化対応加算」の算定を行っている施設が多いと思う。
その条件を既に備えて算定していると思えるが、この中で「看取りに関する職員研修」を実施していることが条件とされている。
その内容の規定は特にないが「介護サービス情報の公表」の項目には「ターミナルの際の精神的ケアに関する従業者に対する研修の実施記録がある」ということも含まれており、単に自施設の「看取り介護指針」の説明と確認だけでは不十分と考えられる。
そこで我が施設も今月の園内研修(本日、午後6時より実施予定)ではこの「看取りに関する職員研修」を行う予定で、講師やビデオなどを探したが、こと「看取り介護」の実際や考え方になると適当な人や教材がなかなか見つからない。
医療機関のターミナルケアとは合致しない部分があるし(考え方の基本は合致しても、似て非なる部分もあり)今回のルールに沿った内容も必要だからだ。
そこで面倒くさいので、私自身が講師になって、4月からの看取り介護の実践を外部で発表している資料をベースに、看取り介護のルールや、考え方、支援に当たる心構えや必要な知識と技術など、多角的に講義することした。
自分でやればお金もかからない。
皆さんのところでは、どんな方法や内容で行っているんだろう。近くの施設であればお手伝いしますよ。
看取り介護は「死に行くため」の援助ではない。 (2006年10月26日)
先日、日経BP社から「日経ヘルスケア」という冊子が送られてきた。
忘れていたが、9月下旬頃、わざわざ東京本社から同社の記者が訪れて当施設における「看取り介護」の実践の取材を受けた際の記事が掲載されている。
2時間近くにわたった取材の割りに、わずか1ページの記事である。しかし量より、内容を見て、やはり取材というのは事実が伝わりづらいなあ、と感じた。
例えば医師によるムンテラをカンファレンスと混同して記載されている。僕自身の看取り介護に対する「思い」も微妙に違って表現されている。
やはり、こうしたデリケートな問題は、自分自身の論文や講義で表現するしかないのだろうか。
そんな折、北海道のホスピスの協会から、介護施設でのターミナルケアのあり方に関するシンポジストの依頼があった。シンポジウムの参加者は、ホスピス医療に携わる医師と看護師が主であり、僕が日頃、講演を行う対象である介護関係者や学生とは肌合いが少し違うので、二の足を踏んでいたが、僕の施設の所属医からの強い依頼もあって、お引き受けすることにした。
とはいっても時期は年が変わった来年のことであり、主催団体の正式名称も、参加対象範囲の詳細も把握していないのだから、我ながら「すいぶんお気楽に受けちゃったなあ」と反省している。
さて、その中で僕が伝えなければならないことは、医療関係者の介護施設の「看取り介護」に対する偏見であると感じている。
その偏見とは、言い換えれば、医療関係者の特養のターミナルケアに対する「信頼できない」という思いである。
この4月に、特養の介護報酬に「看取り介護加算」が算定される際の、最大の抵抗勢力は日本医師会であったことは隠しようもない事実である。その反対理由は、医師や看護師が常駐していない場所でのターミナルケアに加算をつけることは、安上がりの終末ケアを促進するものであり、救える可能性のある命まで、安易に終末期として処理されるのではないかという懸念であろう。
しかし実際に費用としての面を考えると、僕がこのブログで何度も指摘しているように、1日1.600円、最長30日しか算定できない「看取り介護加算」を得るために、それを実践するということは、看護師の緊急呼び出しの超過勤務手当等を考えても、決して収益に繋がらず、加算目当てに実施する施設などあり得ないという点がまずひとつにある。
冒頭に紹介した冊子の掲載論文には「ターミナル加算の算定が生き残りの条件」というタイトルの論文が掲載されているが、それは入所者全員に10単位の加算ができる「重度化対応加算」と「看取り介護加算」を混同して述べられている拙劣な論文であると感じた。
さて、そう考えたとき、私は医療関係者に強く訴えたいことがある。
特養の新報酬で看取りの取組が評価された背景には、施設でのターミナルケアの実践を促進することで、医療機関での死を減少させ、終末期の延命治療にかかる医療費を削減する、という考え方がある、という声が聞かれる。それが真実か否かは解らない。
しかし我々は、この加算ができる以前から、ターミナルケアに取り組んできており、それは死への援助ではなく、「生きる」という姿を支えてきたという意味がある。その人らしい尊厳ある生き方の延長線上に「看取り」という時期があるという意味であり、ターミナルケアに係わるすべての関係者は、人の命の尊さを理解し、敬い、謙虚に係わるという姿勢がなければならないし、看取り介護の研修では、こうした観点の教育は欠かせない。
看取り介護が、単に延命治療の否定ではなく、人の尊厳ある生き方にたいする介護であり、尊い命が燃え尽きる最期の時まで、その人らしい生き方ができるための支援であるということを忘れてはならない。ということである。
そして最後の瞬間まで、それぞれの命が、輝ける命であるために、われわれは今日も看取りの介護に取り組んでいる、という事実である。
看取り介護へ寄せられる疑問に答える (2007年3月2日)
特養の看取り介護についてはその問題を過去にも書いてきた。そのことと一部重複することを恐れず、述べておかねばならないことがある。
というのも一部の医療関係者の中には、昨年の制度改正で特養に看取り介護加算という請求コードができ、費用算定されることになったことで、費用算定を目的に、安易に終末期のケアが特養に於いて行なわれるのではないかという疑問を持っている方がいるからである。
確かに国の考えは、介護保険制度改正のみならず、医療制度改正においての在宅療養支援診療所の位置づけでもわかるように、死を迎える場所を医療機関から、それ以外の場所に渡そうという誘導はあるように思え、それは医療機関で終末を迎える場合より、他の場所でターミナルケアを行なうほうが医療費の抑制効果がある、という意味があることを否定はしない。
しかし、だからといって、看取り介護加算ができたから、特養で終末期のケアは安易に行なわれるというのは大きな誤解である。
施設サービスの報酬は抑制され、特に昨年の改正では多床室の単価が下げられたことで、経営的に厳しくなっていることは確かである。そのため体制加算の「重度化対応加算」の10単位というのは非常にありがたい加算であり、これもターミナル関連加算といえるわけではある。しかしこの加算は「看取り介護を行う体制も含めた重度の医療対応が必要な人も受け入れることができる体制」に対しての加算であり、正看護師の配置や、医療機関との24時間連携が必要で、体制作りにもコストがかかるもので、必ずしも経営的なメリットがあるというものではない。
ただ医療対応が必要な利用者が増えて、それらの方々に対応する場所が必要というニーズに応えるのも特養の社会的使命であり、そういう意味で体制が整えることが可能な施設で、この加算を算定して、適切に利用者の医療ニーズにも応えようとするものである。そしてこの体制加算自体は、ターミナルケアを行うという実績とは直接的な関連はない。
ターミナルケアの実績加算としての「看取り介護加算」との関連で言えば、重度化対応加算を算定している施設で、利用者が終末期に過ごしたいと望んだ場合に、そのニーズに応えられないのは問題であろうし、当然「看取り介護」を行うことが前提になっていることは間違いない。
さて、そのとき、実際の看取り介護を行い「看取り介護加算」を算定して、経営的にメリットがあるのかと問われれば、首を傾げざるを得ない。
例えば当施設での実績を見ると、昨年4月から11月までの実績では、看取り介護の実施件数が7件、延べ44日実施である(最短1日、最長21日)。加算報酬は44日×1.600円=70.400円である。コスト計算を細かくすれば、このために看護職員が夜間対応する超過勤務費用、看取り介護のために、その他の職員が超過勤務する費用や、看取り介護のための消耗品費用などを勘案すれば、ここから収益など出るはずはない。
また看取り介護は30日以上実施しても、加算算定期間は30日限定なので持ち出しのほうが大きくなる可能性のほうが高い。だから看取り介護を行って施設の収益を上げるなんてことは不可能だ。この部分だけいえば赤字であろう。
しかし振り返って考えれば、当施設をはじめ、加算がない時代からターミナルケアに取り組んできた施設は、それに対する手当が報酬上にできた点はメリットとして認めるが、この報酬算定を目的に看取り介護を行う、という動機付けはない、ということを認識していただきたい。
そもそも特養でのターミナルケアの始まりは、収容施設から生活施設への転換過程で、終生施設としての責任を果たして利用者ニーズに応える形から始まっている。
昭和50年代の初めは、特養利用者が入院すれば1月で籍が切れてしまった。それでは特養は「終の棲家」とはなり得ない、ということから長期入院は3月まで籍を施設に置いておくことができるルールに変更された。それでも当初は、医療機関で医療的な対応は終了したのに、あとは清潔援助と褥創予防や経口からの栄養や水分摂取にできるだけ努めて、安楽な最期を援助するだけなのに、看護対応が不十分で受け入れられない施設。あるいは老衰が進行して、医療機関に受診したがこれ以上、医療処置をしての対応はないのでつれて帰りなさい、といわれ困惑して入院をお願いするような事例が多々あったようで、その都度、医療機関の医師の皆さんからは、特養でターミナルを行なえないのは「おかしい」という指摘とお叱りを受けてきたところである。
それらの疑問や指摘に応える形で、特養では看護職員の配置も基準以上に整備して、協力医療機関との連携の体制も整備して、終末期のケアを行なえる体制を整えてきて、実際にそれを行なうように汗をかいてきたものである。
ところが報酬上に加算ができた途端に、それとは180度方向が違った批判的意見が出るのはおかしいし、認識不足であると思う。
ところで、このたび、ホスピスの関係者の皆さん、医師の方々が中心となっている「日本死の臨床研究会」の北海道支部の依頼を受け4月14日に、札幌市で「介護施設での看取りを考える」という研修会で講演を行う予定になった。
60分という短い講演ではあるが、その中でもこの問題にも触れておかねばならないだろうと今、考えているところである。
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